過去のこの期間、世の中では何が起きていたのでしょうか?20年前・15年前・10年前・5年前の出来事を振り返ってみます。日々のニュースと照らし合わせて、過去の出来事がどのように現在につながっているのか見えてくるかもしれません。
2006年(平成18年)7月1日~7月10日の出来事
【国内】福岡ソフトバンクホークス・王貞治監督が胃がんを公表、休養へ
2006年7月6日、福岡ソフトバンクホークスの監督を務めていた王貞治氏が都内で記者会見を開き、胃がんの治療に専念するため、同日よりチームを離れて休養・入院することを発表しました。
同年3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)において日本代表の監督を率い、並み居る強豪を破って初代世界王者に輝いたばかりでした。世界一の歓喜からわずか3ヶ月後、シーズン真っただ中での現役監督のがん公表は、当時の世相としても信じがたいニュースとして受け止められました。
幸いにも、がんの進行度は比較的初期の段階で発見されたため、王監督は会見直後に入院し、胃の全摘出と転移を防ぐための腹腔鏡下手術を受けました。手術は無事に成功し、過酷な闘病生活とリハビリが始まりました。
術後の体重減少や体力の衰えなど、一時は復帰を危ぶむ声もありましたが、王監督は持ち前の驚異的な精神力と自己管理能力で克服。翌2007年のシーズン開幕戦からは再びユニフォームに袖を通し、見事にホークスの指揮官としてグラウンドへの復帰を果たしました。王監督は復帰後も陣頭指揮を執り続けましたが、自身の体調とチームの将来を見据え、2008年シーズンをもって監督を勇退することを決意します。
14年間にわたるホークスでの監督生活にピリオドを打った後は、球団の最高顧問、そして取締役会長(現職)に就任。現場の指揮は秋山幸二氏へと引き継がれ、王氏が植え付けた「常勝軍団」のDNAは、その後の黄金期へとつながっていきました。

【国際】2006 W杯決勝、イタリア優勝と「ジダン頭突き事件」の衝撃
2006年7月9日(現地時間)、ドイツ・ベルリンのオリンピアシュタディオンで「2006 FIFAワールドカップ(W杯)」の決勝戦、イタリア対フランスの試合が行われました。1対1のままもつれ込んだ延長戦でも決着がつかず、PK戦を5対3で制したイタリアが、1982年大会以来、6大会ぶり4回目となる世界王者の栄冠に輝きました。
この大会は、フランスの伝説的な司令塔であり、世界のサッカー界の至宝であるジネディーヌ・ジダン選手の現役引退興行でもありました。ジダン選手はこの決勝でも前半に先制のPKを決めるなど、まさに自身のキャリアの集大成にふさわしい輝きを放っていました。
事件は延長後半の110分、イタリアのディフェンダー、マルコ・マテラッツィ選手と激しいポジション争いをした直後、並んで歩いていたジダン選手が突如として反転。マテラッツィ選手の胸元に向けて、強烈な頭突きを見舞ったのです。ピッチに倒れ込むマテラッツィ選手。主審は副審(現在のビデオアシスタントレフェリーがない時代における、第四審判からの進言)との確認を経て、ジダン選手に「レッドカード」を提示しました。
一発退場を言い渡され、うつむきながらピッチを去るジダン選手。その傍らには、彼が掲げるはずだった、黄金に輝くワールドカップのトロフィーが虚しく佇んでいました。絶対的な精神的支柱を失ったフランスは、そのままPK戦で力尽きることとなりました。
世界中が唖然としたこの暴挙の背景には、マテラッツィ選手による執拗な「マインドゲーム(精神的な揺さぶり)」がありました。のちの報道や本人の告白により、マテラッツィ選手がジダン選手の家族(姉)を侮辱する極めて不適切な暴言を吐いていたことが判明。ジダン選手は「後悔はしていないが、世界中の子供たちには謝罪したい」と語り、マテラッツィ選手も自身の非を一部認めました。

2011年(平成23年)7月1日~7月10日の出来事
【国内】松本龍 復興担当大臣が「舌禍騒動」により、わずか在任9日で辞任
2011年7月5日、東日本大震災からの復興を国主導で牽引するために新設された「復興対策担当大臣」に就任したばかりの松本龍氏が、首相官邸で菅直人首相(当時)に辞表を提出し、受理されました。同年6月27日の就任から、わずか9日間での電撃辞任。被災地を訪問した際の発言が「高圧的な暴言である」として世論や国会から猛烈な批判を浴びた、前代未聞の「舌禍(ぜっか)騒動」による引責辞任でした。
東日本大震災の発生から約4ヶ月が経過し、被災自治体では本格的な街の再建に向けた法的枠組みや財政支援が急務となっていました。その司令塔として期待された人物のあまりにも早すぎる退場は、復興政策の遅れを懸念させる事態となりました。
事の発端は、辞任の2日前となる7月3日の被災地訪問でした。松本氏は岩手県庁と宮城県庁を相次いで訪れ、各知事と会談を行いました。しかし、その場での言動がメディアによって一斉に報じられると、日本中に激しい怒りと衝撃が広がりました。
岩手県庁では、達増拓也知事に対して「国は知恵を出したところは助けるが、知恵を出さない奴は助けない」と言い放ちました。さらに、続く宮城県庁では、村井嘉浩知事が応接室に数分遅れて入ってきたことに激怒。握手を拒否した上で、「客が来る時は、自分が入ってから客を呼べ。長幼の序がわかっているか」と叱責しました。
さらに松本氏は、同席していた報道陣に対して「今の発言はオフレコ(非公開)だ。書いたらもうその社は終わりだからな」と、マスコミを脅迫するかのような口調で釘を刺したのです。しかし、東北の民放局などがこの一連の映像をそのまま放映。言葉を失うような高圧的な態度が白日の下にさらされ、批判の声は一気に頂点に達しました。
松本氏は辞任の記者会見で「私の本意ではないが、言葉が足りなかった。被災者の心に傷をつけたならお詫び申し上げます」と陳謝しました。しかし、震災対応の遅れからすでに深刻な求心力低下に陥っていた菅直人内閣にとって、この騒動は致命的な追い打ちとなりました。野党からは任命責任を追及する声が相次ぎ、政権の退陣論が一段と加速する政治的事件となりました。
なお、松本氏はこの騒動の翌年(2012年)の衆議院選挙に出馬せず、そのまま政界を引退しました。

【国際】南スーダン共和国が独立。アフリカに新国家の誕生
2011年7月9日、東アフリカに位置する「南スーダン」がスーダン共和国の南部から分離独立し、新国家「南スーダン共和国」が正式に誕生しました。首都ジュバでは独立を祝う記念式典が盛大に開かれ、国旗が掲げられると詰めかけた多くの市民が歓声を上げ、歓喜の涙を流しました。
同月14日には国際連合への加盟が全会一致で承認され、南スーダンは国連の193番目の加盟国となりました。21世紀における最大規模の国家誕生であり、アフリカ大陸の地図が大きく塗り替わる、歴史的な転換点となった出来事です。
南スーダンが独立に至った背景には、半世紀以上にもわたって続けられた凄惨な南北内戦の歴史があります。もともと一つの国家であったスーダンですが、アラブ系・イスラム教徒が多数派を占める「北部(現スーダン)」の政権に対し、アフリカ系・キリスト教や伝統宗教を信仰する人々が中心の「南部(現南スーダン)」が反発。1956年の独立直前から始まった第一次、そして1983年からの第二次スーダン内戦により、累計で250万人以上の命が奪われ、400万人以上が家を追われる破滅的な事態が続いていました。
長年の泥沼化を経て、2005年にようやく包括和平合意(CPA)が成立。それに基づき、独立の是非を問う住民投票が2011年1月に実施された結果、なんと98.83%という圧倒的な賛成多数を記録し、この日の平和的な独立を勝ち取ることとなりました。
悲願の独立を果たした南スーダンですが、その後は新たな課題が待ち受けていました。
最大の誤算は、共通の敵であった北部(スーダン)からの独立を果たした直後、国内で主導権をめぐる「部族間の権力闘争」が始まってしまったことです。独立からわずか2年後の2013年、サルバ・キール大統領(ディンカ族)と、当時のマシャール副大統領(ヌエル族)の対立から大規模な内戦へと再突入。再び多くの犠牲者と難民を生み出すこととなりました。
さらに、主要な財源である石油資源の多くが南部に埋蔵されているものの、それを輸出するためのパイプラインや港湾施設がすべて北部のスーダン側にあるという経済的な構造問題も、両国間の緊張を長引かせる要因となっています。
南スーダンの治安維持と復興のため、国連は平和維持活動(PKO)の「国連南スーダン派遣団(UNMISS)」を組織し、日本の自衛隊も2012年から2017年にかけて施設部隊を派遣して道路整備などの人道支援を行いました。現在、本格的な内戦こそ終結に向かっているものの、部族間の武力衝突や深刻な飢餓、インフラの不足など、国家としての歩みは今なお険しい道のりが続いています。

2016年(平成28年)7月1日~7月10日の出来事
【国際】バングラデシュ・ダッカ襲撃テロ事件
2016年7月1日夜(現地時間)、バングラデシュの首都ダッカの高級住宅街ガルシャン地区にある飲食店「ホーリー・アーティザン・ベーカリー」に、自動小銃などで武装した過激派グループが乱入しました。武装集団は外国人を中心とした客を人質に取って立てこもり、翌朝の治安部隊による突入作戦までに、人質20名を殺害しました。
この犠牲者の中には、国際協力機構(JICA)が手掛けるダッカの都市交通(メトロ)計画などに携わっていた日本の開発コンサルタント関係者ら日本人7名(男性5名、女性2名)が含まれていました。
バングラデシュは伝統的に極めて強い「親日国」として知られており、日本からの政府開発援助(ODA)によるインフラ整備や経済支援を高く評価している国でした。事件が起きた飲食店は、緑豊かな庭園を備え、外国人や現地の富裕層、外交官らが日常的に利用する治安の良いオアシスのような場所だったため、その裏をかく形での襲撃となりました。
犯行に及んだのは、過激派組織「イラク・レバントのイスラム国(ISIL)」に忠誠を誓う過激思想に染まった現地の若者たちでした。
彼らは貧困層の出身ではなく、ダッカの裕福な家庭に育ち、高学歴なエリート層であったことがのちの捜査で判明し、社会にさらなる衝撃を与えました。犯行グループは人質に対し、イスラム教の聖典「コーラン」の一節を暗唱できるかどうかで生存者を選別するという、極めて残虐な手段を取っていたことも明らかになっています。
日本政府は事件直後、官房長官をトップとする緊急対策本部を設置し、当時の岸田文雄外務大臣が対応に奔走。政府専用機で遺族らを現地へと派遣しました。
この事件は、従来の「紛争地域や危険地帯に近づかなければ安全」という海外安全対策の前提を根底から覆しました。比較的治安が安定しているとされる親日国であっても、ソフトターゲット(警備が手薄な民間施設)を狙ったテロの脅威が一般市民やビジネスパーソンに及ぶことが証明されたためです。
これを受け、外務省やJICAは海外に滞在する邦人や、国際協力業務に従事する民間関係者の安全確保策を抜本的に強化。現地のセキュリティ情報の共有体制の構築や、企業・団体向けのテロ対策訓練の義務化などが進められることとなりました。
事件から数年が経ち、テロの実行犯らには現地裁判所で死刑判決が言い渡されました。JICAや日本のコンサルタント企業は、深い悲しみを抱えながらもバングラデシュへの支援を途絶えさせず、事件から約6年後の2022年12月、犠牲となった技術者らが夢見たダッカ初の都市鉄道(MRT6号線)が一部開業を迎えました。駅のコンコースには、今も日本の支援と犠牲者の功績を称えるレリーフが設置されています。

【国際】「Pokémon GO」が海外で先行配信
2016年7月6日、任天堂と株式会社ポケモン、そしてGoogleから独立したNiantic(ナイアンティック)社が共同開発したスマートフォン向けAR(拡張現実)位置情報ゲーム「Pokémon GO(ポケモンGO)」が、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの3カ国で先行配信されました。
現実世界を歩き回りながら画面の中に現れるポケモンを捕まえるという、かつてない体験は配信直後から文字通りの「爆発的ブーム」を巻き起こしました。海外のニュースは連日、スマートフォンを片手に街中や公園を埋め尽くす人々の映像を報じ、ITトレンドの枠を超えた前代未聞の社会現象の幕開けとなりました。
ゲーム内の拠点(ポケストップやジム)となった飲食店や商業施設に客が殺到し、世界中で売上が急増。ひきこもりがちだった人々が外に出ることで「健康増進に寄与する」と医療関係者からも注目されました。
一方で、あまりの熱狂ぶりに社会インフラが悲鳴を上げました。「歩きスマホ」による接触事故や、珍しいポケモンを求めて夜間の敷地内、さらには軍の立ち入り禁止区域や宗教施設、墓地などにプレイヤーが侵入する事態が多発。アメリカでは運転中のプレイによる交通事故や、崖から転落する事故まで報じられました。
本家であるはずの日本での配信は、サーバーの負荷調整などの理由から、海外に遅れること約2週間(7月22日)となりました。この「16日間のタイムラグ」の間、海外での狂騒ぶりをリアルタイムで目撃していた日本国内は、これまでにない奇妙な熱気に包まれることになります。
「早くプレイしたい」というファンの期待が高まる一方で、政府や自治体は海外のトラブル事例を見て急速に警戒を強めました。日本配信を前にした7月20日、内閣サイバーセキュリティセンター(NISC)が「ポケモントレーナーのみんなへのおねがい」と題した、異例の注意喚起イラストを公開。歩きスマホの危険性や熱中症対策、個人情報の保護などを呼びかけるなど、国を挙げた異例のバックアップと対策が講じられた期間でした。

2021年(令和3年)7月1日~7月10日の出来事
【国内】熱海市伊豆山で大規模な土石流災害。盛土規制の大幅強化へと発展
2021年7月3日午前10時半頃、静岡県熱海市伊豆山(いずさん)地区の逢初(あいぞめ)川上流で、大規模な土石流が発生しました。活発な梅雨前線による数日間の記録的な大雨が引き金となり、凄まじい轟音とともに崩落した大量の土砂は、谷筋に沿って約2kmにわたり一気に激流となって住宅街を襲いました。
この災害により、多くの住宅や建物が瞬時に押し流され、関連死を含め28名が犠牲となる大惨事となりました。変わり果てた被災地の光景や、泥だらけの凄惨な現場で行われた自衛隊・警察・消防による不眠不休の捜索活動は、連日全国で報じられ、日本中に強い衝撃を与えました。
当初は記録的な豪雨による大規模な土砂崩れ(自然災害)とみられていましたが、専門家による現地調査や行政の記録が明らかになるにつれ、被害を激甚化させた決定的な要因が浮かび上がりました。それが、崩落の起点となった逢初川の最上流部に造成されていた大規模な「盛り土(もりど)」の存在でした。
この場所には、過去の土地所有業者によって、行政への届け出を大幅に超過する量かつ、産業廃棄物などが混じった不適切な土砂が積み上げられていました。さらに、本来なされるべき排水設備などの安全対策も施されないまま放置されていたことが判明したのです。
大量の雨水を吸い込んでキャパシティを超えた盛り土が一気に流動化し、直下の集落を直撃したという事実から、この災害は防ぐことができた、あるいは被害を抑えられたはずの「人災」ではないかとして、強い社会的批判が巻き起こりました。
熱海での悲劇をきっかけに、日本各地の山間部や斜面に存在する盛り土の危険性が一気にクローズアップされました。当時の実態調査では、全国に基準が曖昧な、または把握しきれていない危険な盛り土が多数放置されている運行管理の盲点が発覚しました。
これを受け、国や自治体は即座に法整備へと着手しました。翌2022年5月には、従来の「宅地造成等規制法」を抜本的に改正した「盛土規制法(宅地造成等基本方針及び特定盛土等規制法)」が国会で成立。それまで自治体の条例ごとにバラバラだった盛り土の規制基準を一新し、目的(宅地、農地、森林など)を問わず、全国一律の厳格な基準で包括的に規制・処罰する法的枠組みへと生まれ変わりました。
伊豆山地区では、崩落した土砂の撤去や逢初川の護岸工事、ライフラインの再整備といった復興への歩みが今なお一歩ずつ進められています。一方で、前所有者や現所有者、そして当時の行政の対応をめぐる法的責任の所在については、遺族らによる民事訴訟も含めて長期にわたる検証が続けられています。

【国内】東京五輪、開幕直前に「首都圏1都3県は完全無観客」が決定
2021年7月8日夜、日本政府、東京都、大会組織委員会、国際オリンピック委員会(IOC)、国際パラリンピック委員会(IPC)による5者協議が開催され、約2週間後の7月23日に開幕を控えていた「東京2020オリンピック」について、東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県の首都圏1都3県に所在するすべての会場を「無観客」とすることが最終決定されました。
前年(2020年)の新型コロナウイルスの世界的なパンデミックによる「1年延期」という史上初の決断を経て、ようやく開催へ向けてカウントダウンが始まっていたタイミングでの方針転換。近代五輪の長い歴史においても類を見ない、事実上の「無観客五輪」という異例の事態が確定した歴史的な一夜となりました。
半年前の時点では「収容定員の50%以内、最大1万人」とする観客上限の指針を打ち出し、チケットの再抽選や、来場者向けの検温・消毒プロトコル、スタジアム内での大声での応援禁止など、綿密な感染防止対策の準備が進められていました。
しかし、初夏を迎えると事態は急速に悪化します。感染力が極めて強いとされる新型コロナの「デルタ株(インド由来の変異株)」が日本国内、特に首都圏で急激に蔓延し始め、東京都内の新規感染者数は再び急上昇へと転じました。医療提供体制の逼迫を懸念する専門家らからは「無観客での開催が最もリスクが低い」とする強い提言が相次いでいました。
政府は5者協議に先立つ同日、東京都に対して4度目となる「緊急事態宣言」の発令を決定。これに伴い、「宣言下の地域で開催される大規模イベント」の基準に合わせる形で、首都圏での有観客開催の道は完全に閉ざされることとなりました。
この決定による経済的・心理的なダメージは甚大なものでした。すでに約360万枚が販売されていた観客席がすべて無に帰したことで、大会組織委員会が見込んでいた約900億円のチケット収入の大半が消失。さらに、五輪観戦を心待ちにし、チケットの抽選を勝ち取っていた日本全国の多くのファンは、直前での「観戦機会の剥奪」に深い落胆と無力感を味わうこととなりました。聖火リレーの公道走行中止に続き、1年の延期を経てなお直接応援することが叶わない現実に、スタジアム周辺の商業施設や観光業界からも悲鳴が上がりました。
この首都圏の無観客決定を受け、その後、北海道や福島県など地方の会場も相次いで無観客への変更を表明。最終的に、全セッションの9割以上が無観客で行われるという、極めて静かな、しかし異様な緊張感に包まれた大会となりました。

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