山奥の修道士がローマ教皇に──セレスティヌス5世の異例すぎる就任劇とは?

歴史の中には、まるでフィクションのような出来事が起きることがあります。

13世紀末、山奥で隠遁生活を送っていた修道士が突如ローマ教皇に就任するという驚きの事件がありました。

その教皇の名はセレスティヌス5世。彼はカトリック史上、最も異色の教皇と呼ばれる一人です。

この記事では、教皇不在が続いた混乱期に突然選ばれた修道士の数奇な運命と、彼が残した意外な歴史的影響をひもといていきます。


教皇が決まらない!?長期化したコンクラーベ

1292年、教皇ニコラウス4世の死後、次の教皇を選ぶための「コンクラーベ(教皇選出会議)」が開催されました。

しかし、枢機卿たちの間で意見が対立し会議は約2年間も結論が出ないまま膠着状態に陥ります。
この間、教皇不在による教会運営の停滞が続き、カトリック世界全体に不安と混乱が広がっていました。


「神の怒りが下る」──山中の修道士の手紙が世界を変える

この状況を憂慮した一人の修道士が枢機卿団に向けて手紙を送りました。

彼の名はピエトロ・ダ・モッローネ。
イタリア・アブルッツォ地方の山中で隠遁生活を送っていたベネディクト会系の老修道士で、人里離れた洞窟で祈りと禁欲の日々を送る、いわば“仙人”のような生活をしていました。

手紙の中で彼は、教皇が長期間選ばれないことに対して「神の怒りを招く」と警告しました。

この言葉が枢機卿たちに強い印象を与え、最終的にピエトロは次期教皇に指名されるという予想外の展開を迎えます。


拒否するも説得され…「セレスティヌス5世」誕生

突然の指名にピエトロは当然ながら戸惑います。

世俗から離れた暮らしを望んでいた彼は何度も辞退しますが、ローマから派遣された使節団の説得により、ついには受諾。

こうして彼は「セレスティヌス5世」として教皇に即位しました。およそ85歳という高齢での就任でした。


教皇の責務はあまりに重く

セレスティヌス5世が教皇に就任したのは1294年の夏。敬虔で無私の人物として讃えられましたが、その誠実さと経験不足が、やがて混乱を招くことになります。

まず、教皇庁の政務に対する知識がほとんどなかったため、日々届く複雑な法務や外交文書に対応できずに、すべてを他人任せにしてしまいました。

加えて、セレスティヌスは自らの周囲に修道士仲間や信頼する人物ばかりを登用し、既存の教皇庁の構造と摩擦が生まれます。こうした「素人政治」は枢機卿団やローマ市民の不安と不満を加速させました。

また、修道士としての禁欲的な性格から、豪奢な教皇の住まいや儀式をきらい、質素な生活を求めたことで、周囲から“教皇としての威厳がない”とささやかれます。

これらの要因が重なり、自身の無力さと教皇という重責とのギャップに苦悩し、「自分は神に選ばれし者ではないのではないか」と深く思い詰めていきます。


わずか5カ月の在位が残したもの

ついに、即位からわずか5か月後の1294年12月、セレスティヌス5世は「神の前に正しくあるため」との理由で自発的に辞任する決断を下します。

これはカトリック教会の歴史の中でも極めて異例な出来事でした。
当時、教皇が自ら辞任するという前例がほとんどなかったため、彼はその合法性を明文化する必要があると考えました。

「教皇は自由意志に基づき退位できる」とする勅令(Quia propter)を発布し、自らの辞任が正当であることを公式に示したうえで、その座を降りたのです。

この出来事は約700年後の2013年に、当時のローマ教皇ベネディクト16世が自身の高齢と体調不安を理由に辞任した際にも前例として参照され、セレスティヌス5世の決断が後世にまで影響を及ぼした事がわかります。


まとめ:歴史を動かした「選ばれたくない人」

セレスティヌス5世の物語は、「望んでいなかった者が最も大きな役割を担う」という歴史の皮肉を教えてくれます。

彼の短い在位は混乱も生みましたが、信仰と誠実さが時代を超える影響を与えたという点で、これからも語り継がれる存在となりました。

教科書には載らない逸話の中にこそ、人間味あふれる歴史の物語が眠っているのでしょう。

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