消えた明治5年の12月 ― 改暦の混乱と民衆をなだめた人物とは?

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明治5年12月2日の翌日は、明治6年1月1日になった

日本史の出来事において、この一文を直感的に理解できる人は多くないでしょう。
これは誤記でもなんでもなく、明治政府が意図的に行った“急進的な制度変更によるリセット”でした。

本来31日まであるはずの12月が、わずか2日で消滅したこの出来事は、日本人の生活・経済・信仰・時間感覚そのものを揺さぶります。


何が起きたのか ― 日付が消えた「改暦」の中身

1872年(明治5年)11月9日、明治政府は 太政官布告第337号 によって次のように宣言しました。

「来る明治六年より太陽暦を用う」

これにより、日本は約1200年使い続けてきた太陰太陽暦(旧暦)を廃止し、欧米と同じグレゴリオ暦(太陽暦)へ一気に切り替えます。

つまり、旧暦の1872年12月3日が太陽暦の1873年1月1日にあたるため、明治5年12月3日〜31日は暦上「存在しない日」となりました。

結果、日本史上唯一、

  • 1か月が 2日しか存在しない年
  • 年末が突然“蒸発”した年

が生まれたのです。


なぜ、ここまで強引だったのか

① 国際社会との「時間のズレ」

旧暦は月の満ち欠けを基準とするため、

  • 1か月:29日または30日
  • 1年:354日程度
  • 数年に一度、閏月を挿入

という仕組みでした。

これは農耕社会には適していましたが、

  • 条約締結日
  • 外交期日
  • 貿易決済日

といった近代国家の実務では致命的なズレを生みます。

「日本の◯月◯日」が、欧米では別の季節・別の日付になる――
これは外交の場では不利でしかありませんでした。

② 財政的な側面

旧暦のまま進めば、明治6年は閏月を含む13か月の年になる予定でした。

これは、官吏(現在の公務員)の給与支払いに13回目が発生することを意味します。
そこで政府は、明治5年の12月を短縮し、明治6年から12か月固定にするという処理を行います。

結果として給与コストの削減という側面を持っていました。

なお、この年の12月分給与については、日割り計算となり、実質的に支給額が大きく減った官吏も多かったとされています。


民衆に起きた“時間崩壊”

この改暦の布告は、実施のわずか1か月前に行われました。

年末が突然なくなるという異常事態

当時の日本社会においても「年末」は、

  • 借金の清算
  • 掛け売りの締め
  • 奉公人の契約更新
  • 神仏への年越しの区切り

と、生活の区切りでした。

しかし改暦で、

  • 大晦日が消える
  • 正月準備期間も消える

という事態が発生します。

商人からは、「いつ勘定を締めればいいのか分からない」という不満が噴出しました。

情報が届かない地方社会

情報伝達の手段が今よりも限られていた当時では、中央では理解されても、

地方は

  • 布告が届いていない
  • 文字が読めない
  • そもそも意味が分からない

という状況が珍しくありませんでした。

結果として、

  • 役所は新暦で行事進行
  • 住民は旧暦で行事進行

という暦の二重運用が発生します。

農業・信仰への打撃

旧暦は、

  • 種まき
  • 収穫
  • 祭礼
  • 祖霊供養

と深く結びついていました。

暦が変わるということは、「生活のリズムそのものが変えられた」と受け取られたのです。

このため一部では、

  • 旧暦復活要求
  • 政府への反感

が高まり、後年の反政府感情の一因にもなりました。


混乱を“言葉”でなだめた男 ― 福沢諭吉

政府は説明しなかった

改暦は布告されたものの、

  • なぜ改暦が必要なのか
  • 年末行事をどうするのか

について、政府はほとんど説明していませんでした。

この“空白”を埋めたのが、福沢諭吉です。

『改暦弁』の役割

1873年、福沢は『改暦弁』を刊行します。

この書物は、

  • 太陰暦と太陽暦の違い
  • うるう年の意味
  • 曜日の概念
  • 時計による時間管理

まで、徹底的に噛み砕いて説明しました。

重要なのは、改暦を「文明化の一歩」と位置づけた点です。

福沢は、暦の変更を単なる制度ではなく、「日本人が近代的思考へ移行する試金石」として語りました。

この視点が、民衆の不安を“理解”へ変えたのです。


制度を押し切った側 ― 大隈重信

一方、改暦を政治・制度として推進したのが大隈重信です。

  • 財政合理化
  • 行政効率化
  • 国際標準への同調

を重視する彼にとって、旧暦は「非効率な過去の制度」でした。

福沢が“社会の解説役”なら、大隈は“徹底した効率主義者”だったと言えます。

この二人の役割の違いは、明治政府が急ぐ「近代化」と、その過程で振り回される民衆の「社会理解」の両面を進めざるを得なかったことを象徴しています。


まとめ

明治5年の12月がわずか2日で幕を閉じたこの前代未聞の出来事は、国際基準への同調とひっ迫する財政の立て直しという、政府の都合によって断行されたものでした。

この強引な「時間のリセット」は、民衆の生活や信仰、長年の商習慣に大混乱をもたらしましたが、福沢諭吉が『改暦弁』を通じてその意義を説いたことで、人々は次第に新しい暦を受け入れていきました。

この改暦騒動は、日本の近代化が単なる制度の変更にとどまらず、社会全体に大きな「痛み」と意識変革を強いるものであったことを象徴しています。


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