富士山が記紀に登場しない理由を探る:古事記・日本書紀の謎

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日本神話の中核をなす「古事記」(712年)と「日本書紀」(720年)は、神代から天皇の系譜を記した日本最古の歴史書です。

ところが、そこに日本を象徴する富士山は一切登場しません

なぜ富士山は記紀に描かれなかったのか?歴史の裏に隠されたミステリーを追ってみましょう。


「日本一の山」がなぜ出てこない?

日本の象徴ともいえる霊峰・富士山。
ところが、記紀(古事記・日本書紀の総称)には、富士山に関する記述が一切登場しません。

記紀には武内宿禰(たけうちのすくね)の東国見聞やヤマトタケルの東征など、東国に関する描写がいくつか見られます。
それにもかかわらず、巨大な独立峰である富士山には一切触れられていないのです。

富士山は圧倒的な存在感を放つ山です。旅人の目印としてはこの上なく、東国に足を踏み入れた者がこれを目にしないというのは、むしろ不自然とも言えるでしょう。

上空から見た富士山の写真
上空から見た富士山。これほど目立つ山がなぜ記紀の神話に登場しないのか?

実際、記紀より少し後に編纂された「万葉集」には、約130年間に詠まれた約4500首の和歌のうち、11首に富士山が登場しています。すでに当時の人々に深く根付いた存在だったことがうかがえます。

つまり、富士山が記紀に登場しないのは「知られていなかったから」ではありません。
あえて触れなかった——とも考えられるのです。

考えられる理由1:奈良からは遠すぎた?地理的な隔たり

時代とともに中央と東国の境界は徐々に東へと移っていきますが、記紀の編纂された8世紀以前は、奈良盆地より東の地域が漠然と「東国」と呼ばれていました。
富士山はその東国の奥深くに位置し、当時としてはアクセスが難しい場所にありました。

8世紀以前の交通手段では山岳地帯に直接足を踏み入れるのは容易ではなく、道の整備も十分ではなかったと考えられます。そのため、地域間の情報の伝播も限られていたでしょう。

こうした「物理的な断絶」が、政治的・宗教的な要因とも重なり、富士山という存在が記紀の神話世界から遠ざけられた可能性があると考えられます。

考えられる理由2:中央集権の“都合”によって排除された?

記紀の編纂は、8世紀初頭における大和朝廷の中央集権体制の強化という大きな政治的背景のもとで進められました。この時期、大和朝廷は全国の支配体制を固めるために自らの正統性と神聖性を神話という形で整備・正当化しようと試みていたのです。

そのため、記紀に記述される神話の舞台や登場する地名は、畿内や出雲、九州など大和朝廷の支配と関わりが深い地域が中心になっています。

こうした背景から、富士山のように当時の中央から遠く離れ、直接的な支配が及びにくかった東国の地名や自然信仰が、記紀の神話体系から意図的に排除あるいは軽視された可能性も考えられます。

単なる地理的要因に加え、中央集権化を進める過程での政治的な“都合”が働いた可能性も否定できません。

考えられる理由3:融合できなかった“強すぎる信仰”?

富士山は古来より独自の山岳信仰の対象とされてきました。

噴火する富士山を「富士神(ふじのかみ)」として畏れ、富士山本宮浅間大社の社伝によれば、紀元前27年頃に大噴火を鎮めるために神を祀ったのが浅間神社の起源とされています。
平安時代になると火山の神・浅間大神(あさまのおおかみ)と呼ばれるようになり、富士山周辺の住民に深く根付いた地域固有の信仰体系を形成していました。

一方、記紀を編纂した大和朝廷は、自らの支配権と正統性を神々の系譜によって裏付ける「神話の体系化」を進めており、その過程では全国各地に存在した土着の神々や信仰との折り合いが必要となりました。

実際には、多くの地方神(国津神)は天孫降臨以降に「服従する側」として位置づけられるなど、ある程度取り込まれる形で整理されていきます。

しかし、富士山信仰のように強い地域性と独立性をもつ信仰が大和朝廷の神話体系と融合しにくかった場合、あるいはそれが朝廷の権威と競合する恐れがあった場合、意図的に無視した可能性があります。

これは、記紀の目的が単なる神話の収集ではなく、「神話の統合」=「権威の集中」であったことを考えれば、富士山信仰が黙殺されたのは戦略的な選択だったとも言えます。

富士山が記紀に登場しないのは、強固な富士山信仰と朝廷の神話体系との間に、埋めがたい隔たりがあったのではないかと考えられます。


幻の王朝?富士王朝説とは

以下に紹介するのは、あくまで主流説ではなく、伝承や民間研究に基づく仮説です。

古代史ロマン満載の仮説

富士山が記紀に登場しない理由について、学術的な説ではありませんが、民間伝承や古代史ファンの間で注目されているのが「富士王朝説」です。

これは、偽書とされている「宮下文書」に由来する説です。
宮下文書は徐福が編纂したと伝えられていますが、その信憑性については疑いがあります。

この説では、古代日本において大和朝廷に先立つ、あるいは並存していた“もう一つの王朝”が富士山麓に存在し、「高天原」と呼ばれる聖なる都が築かれたと考えられています。

実在したかどうかは別として、もし本当にそんな勢力があったとしたら?
記紀に書かれなかった“別の古代日本の姿”が浮かび上がってきます。

このような視点から見ると、王朝の有無はともかく「かつての別勢力の中心地だった」から、意図的に記述を避けたという解釈も成り立ちます。

ただし、学術的裏付けは薄い

たとえば現在の富士山周辺には、富士山を浅間大神の神体として祀る「浅間神社」が多数存在しており、これは古くから富士山信仰が根付いていたことを示しています。こうした信仰の広がりから、この地には独自の宗教的・文化的勢力が存在していた可能性も、完全には否定できません。

もちろん、この説は現在の主流学説では採用されておらず、あくまで伝承や仮説の域を出るものではありません。それでも、記紀の“空白”を見つめ直す手がかりとして、富士王朝説は古代史ロマンを掻き立てる存在であることは間違いありません。


封じ込めなかった?富士山信仰

富士山周辺は、大和中心の歴史観から外れた存在と見ることができます。

大和朝廷が権威を確立していく過程で、多くの地方の文化や信仰は「日本神話」に形を変えて取り込まれたり、あるいは黙殺されたりしました。

しかし、その中でも富士山は、あまりにも大きすぎる存在だったのかもしれません。

皇族の末裔?が祭祀を司る意味

富士山は古事記や日本書紀では無視されたものの、平安時代になると「延喜式」などの公的記録に浅間神社の名が記され、国家的な神社として認められるようになります。

総本社の浅間大社では、神職の家系である「富士氏」が代々「富士大宮司(ふじおおみやつかさ)」を務めてきました。
その始祖とされる和邇部豊麿(わにべのとよまろ)は、第5代・孝昭天皇の後裔とされ、802年に浅間神社の祭祀を司るようになったと伝わっています。

これは、皇族の血を引く者がこの地の信仰を取り仕切るようになった、つまり大和政権も富士山信仰を無視できなかったことの表れ――と考えることもできるのではないでしょうか。

「女神」化されて神話に融合

浅間大神はやがて女神「木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)」と習合されていきます。

コノハナノサクヤビメは安産や子育て、そして「火難除け」の神として祀られてきました。そのため「火の女神」としての属性から、浅間大神と習合されたと考えられています。

しかし、元が「巨大な山体で荒々しい火山の神」のイメージからすると、優美で儚げな印象の女神との習合にはどこか違和感を覚えるかもしれません。

ただ、この女神の息子・ホオリの孫が初代天皇・神武天皇となります。
こうした天皇の系譜に組み込まれることで、富士山信仰は次第に皇室の神話体系に取り込まれていったのかもしれません。

記紀には登場すらしなかった富士山が、時間をかけて皇統の女神へ結びつけられていった…。
すこし背筋がゾッとするのは私だけでしょうか?


まとめ:記紀に描かれなかった日本の裏側

「富士山が記紀に登場しない」

これは、記紀が描く「日本」に、存在したかもしれない地方の文化圏が何らかの理由で記述を避けられた可能性を示しています。大和朝廷の都合で編まれた歴史書の裏側には、数多くの不都合な真実が眠っているのかもしれません。

古代日本の歴史には、邪馬台国の所在をめぐる議論をはじめ、記紀からして多くの謎や矛盾が存在します。

神代と歴史が地続きだからこそ、柔軟な視点を持つことで、日本の真の姿を知ることができるのかもしれません。

参考リンク
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